+猛毒なるO2+
どことなく蒸し暑い風の吹く夜空で、懐かしい形をした月を見た。
ずるりと暗い場所から這い出るような歪んだ、もはや円を描いていない月。
このぐらいの月の光の強さなら大丈夫だろうと、フォックスはウルフの部屋を訪れた。
もしきらきらの皿のような満月の時に彼の部屋を訪れたらえらい事になるには知れている。
フォックスはコンッと軽くノックして、返事も待たずにドアを開いた。
「ウルフ、起きてるだろ。酒でも飲まな・・・何苦い顔してるんだ?」
「仕事中だ」
ぽかんと口を開いて立っていれば部屋の主がドアを閉めろと促してくる。
主はやや旧式のパソコンに向かって何かを打ち込んでいた。
フォックスはなるべく小さな音でドアを閉め、勝手にベッドに座る。
シーツは自分で交換しているのだろう、思いの他清潔だ。
「仕事、してたんだ」
「手下が多けりゃ色々あんだよ」
シガーを吸いながら、両手ブラインドタッチで素早く文字を打つ。
キーを打つ音だけが部屋に響いた。
カタカタカタカタ、タァン、カタカタカタ、タタ、タァン、カタカタカタカタカタカ。
「そんなの昼間にやればいいのに・・・」
「・・・・うるせぇ」
無機質な沈黙に耐えかねて呟けば即黙れという御達し。
あまりの集中に、この男、表の世界いれば相当切れる仕事マンになっていたんじゃないかと思ってしまう。
もっとも合法的な方法はあまり好まなさそうだ。
やはり違法無法の方が住みよい世界なのだろう。
「・・・・・・」
「・・・何だ?」
ぼんやりとウルフの顔を見上げれば、どこかいつもの覇気がない。
顔色が冴えないせいだろうか。
「ウルフ、もしかして寝てないのか。昨日から?」
「・・・昼間に仮眠は取った」
「昼間・・・」
「てめぇは仕事で元の世界に戻ってたんだろうが」
タァンッと一際いい音でキーが鳴る。
カタカタ音が止むと、ウルフはめんどくさそうに語り出した。
昨日からパソコンで作業していること。
本当は昼間に仕上げてしまうつもりだったこと。
途中でリンクが来たこと。
「リンクにまた変なこと教えてないだろうな?」
「知らねぇよ」
リンクからフォックスが仕事でまだ帰らないといつになく寂しそうに言われたこと。
仕方ないから作業の手を止めて話し相手になってやったこと。
その後に僅かな時間で仮眠を取っていたこと。
「なんか大変だったんだな」
「帰ってくるのが遅ぇんだよこのノロマ!」
「これでも早く帰ってきた方だって!・・・・・・なぁウルフ」
ピンと思い立って狐の耳が天井を向く。
それだけなのに、なぜかウルフは嫌な予感を感じ取った。
「・・・もしかして、リンクのいない時に仕事してたりする?」
「・・・それがどうした」
「そうやって、いつもはリンクが来る前に終わらせてやってるんだろ」
「・・・酒置いてとっとと失せろ」
図星だな、とフォックスが笑う。
ウルフは苦虫を噛み潰したような顔して、すごいスピードでキーボードを打ち鳴らした。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタタァンカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタタァン。
カタカタカタタァンカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタタァンカタカタカタカタ。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタァンタカタカタカタカタカタカタカタタァンカタカタカタカタカタカタカタ。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタタァンッ!!
「・・・終わったぞ」
隻眼がギロリとフォックスを睨みつける。
ウルフはパソコンを終了させながら酒、と短く彼が持ってきたであろうものを要求した。
「仕事早っ!」
「どっかのノロマとは違うからな」
シガーをすり潰し、すぐさままた新しいシガーに手を伸ばす。
戦闘機乗りがそんなにシガーを吸っていいのかとフォックスは内心思った。
直接訊ねれば恐らくうるさいと帰ってくるだけな気がして言葉にはしない。
ウルフもデスクから離れてベッドに腰かけ、フォックスは傍にある窓の縁側を台代わりに酒とグラスを置いた。
「はいお疲れ」
透明な金色に満たされたグラスをフォックスから受け取り、喉に流し込む。
冷たくとも胃に入れば焼ける熱さが心地よい。
「・・・向こうの酒か」
「まぁせっかく行ったんだし」
まるでお土産を買ってきたと言わんばかりの声色に、ウルフは顔を強張らせた。
「フォックス、てめぇはまさかずっとこの世界に居たいとか思ってないだろうな」
「え・・・そうだなぁ・・・えっと・・・」
煮え切らない返答は肯定。
ウルフはもう一口酒を滑らし、溜息めいた息を吐いた。
「俺様は戻りたいぜ。戻って命のやり取りをする」
「物騒だな」
「てめぇも同じだ」
途端、フォックスの目がぐっと見開かれる。
戦場で見る瞳によく似た色を浮かべて。
「本当は『敵』を壊すことが、止められねぇ。そうだろ?」
瞳は薄く笑い、目の前の唇が弧を描いて開く。
あのガキの前では到底見せられないであろう、柔らかで悪魔のような笑み。
『自分を害し妨げるもの』に向けられる愉悦の表情だ。
「そう、かも。でも正義のヒーローだって街を破壊するだろう?」
「破壊するのが楽しいんじゃねぇのか?」
「別に。仕方ないことだし」
仕方がないから、破壊する。建物も、人の命も全部。
そうして果たされる任務は味方の命以外の犠牲で払われる。
世の中から向けられる中傷は皮肉があるが、それとて破壊行動を褒めている。
英雄からすれば、吠える犬なぞ破壊しようと思えばいつだって破壊できるのだから。
「てめぇは俺様達と違って価値があるのもないのも構ってねぇしな」
「価値が分かってないわけじゃないさ。でも、そこに優劣はないだけ」
「物は金になる。金は暮らすのに必要だが、人の命自体に価値は無ぇ」
「まぁ突き詰めるとそうなんだよね」
多くの偉業を成す人と、生まれたばかりの普通の赤子の命は同列にあっても同じ価値ではない。
他人から下されるものこそが価値であり、自分が定めるものではない。
人生の最初から最後まで無価値の人もいれば生まれながらに定められた人もいる。
場所や時によって変化するそれらは、時に金になり、時に塵となる。
「ウルフは賞金かかってる分価値があるのかな?」
「悪徳だがな。てめぇも狙ってみるか?」
「本当にお金に困ったらな」
クスクスとフォックスが酒にまどろんだ笑みを浮かべた。
窓の外では月が暗闇を混じり合っている。
月光が闇を食っているのか、闇が月を食らおうとしているのか。
「フォックス、てめぇこそ俺様達の世界向きだと思うがな」
「俺は闇の中で生きていく気はないさ。入口に立っているぐらいでちょうどいい」
2人の危うい会話を肴に酒は減っていく。
他愛のない会話というには血腥い空気が漂いのに、それでも笑い合う。
ここでの命の減らない戦いと楽しく過ぎ去る日々はとても穏やかだ。
――けれど。
「俺様もてめぇも、ここはいる場所じゃねぇだろう」
「俺達の真価は、宇宙だもんな」
空気も光もない場所こそ、一番上手に飛べる。
そこだけが唯一星よりも輝ける時。
「そういえば、向こうのニュースで言ってたんだけど大分離れた所にだけど未確認の小惑星が見つかったらしい」
「はぁ?今更見つかったのか」
「だから本当に遠い場所なんだって、まだ人の手は入ってないから」
「衛星か何かで確認はした、って所か」
ぐび、と喉を鳴らしてグラスに残っていた酒を飲み干した。
「あ、ウルフ、残りも飲んでくれ。俺はもういい」
フォックスが注し出した酒瓶を受け取り、グラスに注ぐ。
やや多めの量だが、グラスから溢れると言うほどではない。
「それで、どうなるんだ?」
「一応調査はするみたいだけど移動しているようなら安全のため破壊を軍が決行」
「安全のため破壊、か。それからやっかいなガスでも出てんのか」
「いや、高濃度の酸素に似たものが出てるらしい。・・・まぁそれだけで危ないけど」
ふぅとフォックスが酒で熱くなった息を漏らす。
外から吹く蒸し暑い風はいつの間にか止んでいた。
ウルフはパソコン作業で疲れた目を瞼の上から押し、視界の定まらないままフォックスを見る。
出会った時はまだまだガキだったが、今は大人の男として遜色ない。
それが随分前のことのようで、ごく最近のことにも思える。
「・・・俺様も老けるはずだな・・・」
「何、ウルフ感傷中?」
「馬鹿野郎、そんなんじゃねぇよ」
「毎日息吸って飯食って仕事して寝てたら、そりゃ老けもするさ」
死なないように頑張ってるんだから、とフォックスはベッドに仰向けに倒れこんだ。
酸素は人や物を老い酸化させていく。
その濃度が少しでも上がれば生きていけないのだ。
そんな猛毒を、毎日毎日吸わないと生きていないのも事実。
吸っても毒、吐きだしても毒。
それはシガーと何の変りもない。
「俺様がウルフェンに乗れる内にてめぇを撃ち落とさねぇとな」
「返り討ちにしてやる・・・」
仕事の疲れが来たのか、フォックスの瞳がとろんと濁ってくる。
ウルフは残った酒を一気に煽り、上着を放ってフォックスの上に覆い被さった。
ぎしり、とベッドが軋んだ声を上げる。
「・・・ウルフは下だけは若いな」
「てめぇの減らず口は昔っからだ」
「おっさん」
「てめぇもだろ」
フォックスの上に被さる影が濃くなり、互いの言葉が塞がった。
酒に濡れた舌先で猛毒なる空気の貪るような交換が行われる。
「ん・・・はぁ・・・・月が、歪んでたから大丈夫だと思ったのにな」
「こうなること、考えてなくはなかっただろ」
己のが肌に食らいつく獣の牙を感じながら、フォックスは窓の外に視線を移す。
歪んだ月は、いつの間にか闇に食われてほどんど見えなくなっていた。
fin.
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